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善住坊は捕らえられた

元亀元年(1570年)5月6日、杉谷善住坊という鉄砲の名手が信長を暗殺しようとしたことがあったが、未遂に終わっている。天正元年(1573年)に善住坊は捕らえられた。信長は善住坊の首から下を土に生き埋めにし、切れ味の極度に悪い竹製の鋸(のこぎり)で首をひかせ、長期間激痛を与え続ける拷問を科し、なぶり殺しにした。ちなみに、これは大賀弥四郎という家臣に対して家康も行っており、江戸時代では公事方御定書に極刑の一つとして紹介されている。
天正6年(1578年)12月13日、尼ヶ崎近くの七松で荒木村重の一族郎党の婦女子122人を磔にし、鉄砲で次々と撃ち、槍・長刀で刺し殺した。さらに女388人男124人を4つの家に押し込め、周囲に草を積んで焼き殺した。「魚をのけぞるように上を下へと波のように動き焦熱、大焦地獄そのままに炎にむせんで踊り上がり飛び上がった」[15]
信長の敵勢力に対する行為の大半は、当時の常識で言うと残虐というよりもむしろ普通といえる事件もあり、戦国時代を早く終わらせるためにはやむを得ない行為という意見[要出典]もある。実際これ等の所業・処刑方法には、徳川家康等の大名もやったものがあり、秀吉の天正5年に備前・美作・播磨の国境付近で毛利氏への見せしめに、女・子供200人以上を子供は串刺しに、女は磔にして処刑した行為(同年12月5日の羽柴秀吉書状)、武田信玄・上杉謙信等の敵を奴隷として売却すること(ルイ・ソテロ等、当時の伝道師の日記)や敵方の女性を競売にかけたり(小田井原の戦い)といった行為等もことさら珍しいことではなかった。このように当時の状況や道徳の違いを考慮してその行動を評価する必要がある。

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2008年12月14日 09:17に投稿されたエントリーのページです。

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