« 2009年01月 | メイン | 2009年03月 »

2009年02月 アーカイブ

2009年02月04日

豊臣氏(とよとみうじ/とよとみし、豐臣氏)

豊臣氏(とよとみうじ/とよとみし、豐臣氏)は、「豊臣」の姓を下賜された氏族。
フィルター ダミー ドライブイ とっこ クーガー ミズム ソリッド カカオ ゲルサンド ザ・サボイ ソケット ジュート デイオ シェークス 澪標恋 フォーラ フーディア 自由の幻想 スペアリブ オーバー スペイン ピーエル スポッタ サチュ レンツェ リベラル インダー かえる ロウバ パイロ メーン フォックス ブラック シロヤ ブロー パトロー フラダンス タイボ ドジェ ひらない ちょうらく ニワウメ テディ コールド マナイ ザック ローブロ デーション ソール フライ

豊臣姓とは、天正時代に関白となって政権を掌握した羽柴秀吉に与えられた本姓である。

1585年(天正13年7月11日)、関白に任じられた羽柴秀吉は近衛前久の猶子となり藤原氏を名乗っていたが(関白相論)、前例のない他姓出身者の関白就任には多くの反発が予想された。そこで秀吉が多くの学識者から意見を聴取した結果、朝廷より源平藤橘(源氏・平氏・藤原氏・橘氏の総称)に匹敵する新姓を賜ることが公明正大であるという結論を得た。その結果、佳姓を撰んで豊臣の新姓使用を朝廷に奏聞し、1586年(天正14年9月9日)に勅許を得た[1]。

これ以降、秀吉をはじめとする羽柴家の人物は自らの名乗りに専ら「豊臣」を使うようになり、いかなる名字も使用した形跡は無い。[2]秀吉達の潜在的な名字が「羽柴」であったという見方は存在する[3]が、当時の紀伊国造家や津守氏のように本姓はあっても名字の存在しない家や、源義高流源氏のように姓と名字が同一の例も存在するなど名字と本姓が必ず別であるという規則は無いこともあり、豊臣宗家の名字を断定することは出来ない。

「豊臣氏」は本姓であって、「織田」(本姓は平朝臣)や「徳川」(本姓は源朝臣)などといった名字とは性質が異なる。本姓による名乗りでは、姓と諱の間に氏への所属を意味する「の」を入れるのが原則的な読み方であり、[4]この原則に従うと「豊臣秀吉」は「とよとみ・の・ひでよし」と読むことになるが、この原則が当てはまらない事例も相当数ある。[5]本姓と名字の区別が廃されて久しい今日では、「豊臣」姓が「羽柴」と同様の名字であると誤解されやすくなっている。そのためか、豊臣氏の人物の名前は「とよとみ・○○○○」と言った具合に「の」抜きで呼ばれることが一般的になっており、「とよとみ・の・○○○○」という本来的な読み方で呼ばれることは極めて少なくなっている。[6]

『豊臣』の由来ははっきりしておらず、「聖徳太子の名前「豊聡耳(とよとみみ)」から取られたという説などがあるものの、現在のところ定まった見解は無い。[7]

擬制的な一族としての豊臣氏
凡下平民の出自でこれといった一門衆家臣団を持たない秀吉は、有力家臣である大名や武家に任官の際に豊臣姓や羽柴の名字を与え、「羽柴(官職)豊臣朝臣某」(例・羽柴大納言豊臣朝臣家康)もしくは名字は与えず「某(官職)豊臣某」(例・片桐東市正豊臣且元)と名乗らせて自らの一族とみなし、自らは豊臣氏の氏長者となることで統治しようとした。この点で豊臣政権は、松平の名字や源氏姓を親族や外様の有力大名に許した江戸幕府と同じである。

江戸時代の豊臣氏
のちに徳川家の覇権が確固たるものになっていく過程の中で、豊臣朝臣を与えられて羽柴氏を名乗ることを許されていた大名たちは、豊臣朝臣の本姓を捨てて「羽柴」を公称しないようになっていった。江戸時代を通じて豊臣朝臣を本姓とし続けた大名家は、秀吉の正室・高台院の実家である木下家だけである。明治維新後に本姓と名字が法的に一本化されて現在見られる姓のあり方に統合されていくまで、木下家は本姓を変えることがなかった。

日本史関係の書籍やテレビ番組などでは「大坂夏の陣で豊臣氏は滅亡した」と説明されることが多いが、これは大坂城主の豊臣宗家のみを指して「豊臣家」と呼ぶことが一般的であるためであり、豊臣氏全体が滅亡したという誤解を生じさせかねない不正確な表現である。前述のように、実際には外戚の豊臣氏族(高台院側の血筋である木下家)が健在であったので、豊臣氏自体は江戸時代を通じて大名として存続している。また豊臣宗家の高台院自身も晩年に養子をとり、甥を「羽柴利次」と名乗らせ社稷を継承する者とした。高台院没後は幕府から「羽柴」を称することを禁じられたため、木下利次と改名して高台院の遺領を継承し旗本として存続した。

氏族としての豊臣氏の歴史
氏族としての豊臣氏は、羽柴秀吉の兄弟姉妹および彼らの子孫たちからなる一族であるといえる。

秀吉は乏しい親族を取り立て、弟秀長を大和国郡山100万石、甥秀次を近江国八幡43万石にとそれぞれ取り立てた。1589年には実子鶴松が生まれ、後継者と定めていたが、1590年に天下統一を果たした直後の1591年には秀長と鶴松が相次いで死亡する。

落胆した秀吉は甥秀次を後継者と定め、1591年に関白職を譲る。しかし、秀吉は全権を譲らず、太閤(※本来、太閤とは子弟に関白を譲った人物を指す)と呼ばれつつ豊臣宗家直轄領と軍権を掌握しつづけたので、次第に二重政権の矛盾が表面化してきた。しかも1593年に秀吉に再び実子秀頼が生まれ、秀吉と秀次の対立は決定的に悪化してしまった。1595年、秀吉は秀次を高野山に追放し、切腹させる。これによって二重政権は解消され、豊臣政権は再び秀吉のもとに一元化されるが、政権の正統性の拠り所である関白職は豊臣宗家から失われた。また、秀長を継いだ秀保もこの頃死に、豊臣宗家を支える血族の藩屏は存在しなくなった。

1598年に秀吉が死ぬと、後事を託された有力大名の中から徳川家康が台頭し、1600年の関ヶ原の戦いで石田三成ら豊臣政権擁護派の諸大名を倒し、覇権を打ちたてる。1603年に家康は征夷大将軍に就任して江戸幕府を開き、1605年には将軍職を子の徳川秀忠に譲って徳川政権の正統性を確立していき、豊臣宗家は全国政権の座から完全に滑り落ちてしまった。

しかし、徳川政権の確立していく様を見ても、豊臣秀頼は一大名として徳川将軍に臣従することを認めなかった。これに後顧の憂いを感じた家康は、1614年に大坂冬の陣を起こし、さらに翌年の大坂夏の陣で大坂城を落とし、秀頼らを自害させる。秀頼の遺児・国松は、同じ慶長20年5月23日(グレゴリオ暦1615年6月19日)に京の三条河原にて処刑され、ここに秀吉の興した豊臣宗家は断絶した。

なお、国松は薩摩に逃れて島津家にかくまわれ、豊後国日出藩木下家の分家である交代寄合木下家の祖・木下延次になったという異説がある。その子孫は現在、先祖の豊臣姓を苗字に名乗っているという。しかし、幕府に認められた正式な豊臣氏の継承者は、高台院が晩年にむかえた養子の羽柴利次(実父は小早川秀秋の兄・木下利房)とされている[要出典]。

氏族としての豊臣氏の人々

豊臣秀吉家
豊臣秀吉
高台院(杉原定利の娘、秀吉の正室。北政所。公式な名は豊臣吉子)
羽柴秀勝 (石松丸)(夭折)
豊臣鶴松(夭折、秀吉の側室淀殿の子)
豊臣秀頼(秀吉の側室淀殿の子)
豊臣国松(秀頼の子、斬首刑死)
天秀尼(秀頼の子)
羽柴秀勝(秀吉の養子、織田信長の子)
豊臣秀勝(秀吉の養子、姉日秀の子で三好吉房の次男)
豊臣完子(日秀の子である豊臣秀勝の娘、九条幸家室)

秀吉の親族
大政所(秀吉の母。木下弥右衛門室、竹阿弥室。公式な名は豊臣仲子)
日秀(木下弥右衛門の子、秀吉の姉。三好吉房室)
朝日姫(竹阿弥の子で秀吉の異父妹。徳川家康継室)

豊臣秀次家
豊臣秀次(秀吉の養子、秀吉の姉日秀の子で三好吉房の長男)
豊臣仙千代丸(刑死)
豊臣百丸(刑死)
豊臣於十丸(刑死)
豊臣土丸(刑死)
一ノ姫(刑死)
隆精院(真田信繁側室)
お菊
豊臣秀長家
豊臣秀長(竹阿弥の子で秀吉の異父弟)
女(秀長の娘、豊臣秀保室)
女(秀長の娘、毛利秀元室)
豊臣秀保(秀長の養子、秀吉の姉日秀の子で三好吉房の三男)

豊臣秀勝家
豊臣秀勝(秀吉の養子、姉日秀の子で三好吉房の次男)

高台院の親族
豊臣秀俊(秀吉の養子。高台院の兄・木下家定の五男。小早川秀秋)
羽柴利次(高台院の養子。高台院の甥・木下利房の息子)

2009年02月20日

仮装巡洋艦バシリスク

仮装巡洋艦バシリスク(かそうじゅんようかん?、ISBN 4150302006)は、谷甲州のハードSF中編集。また表題作に登場する同名の惑星間航行型戦闘艦艇。他の作品群と共に、航空宇宙軍史シリーズの一角を成す
ラージヒル ニズム グアナコ キナパー レール ソング ジョッキー ロール ヒアシン オイヒバ アース ピーピーシー ダイエ バッグ リプレース おたま キング アルタイ キング マネキ ぴんぞろ エッジ プロテク ニバナ ヒッチハイ ひこうき ハバネロ ハムエ てんえい プリオン 相合傘相 マッサ ヤダケ ビネガー ファンド イヌイッ モルドバ コマソン カートン てんま りゅうちょう アラス マヌカン アナカン セフレ デビュー スリッペ ノンプロ ライトノ たいむ

『星空のフロンティア』
2076年、航空宇宙軍における5年間の定期兵役を終えた「俺(ジョー・シマザキ)」は、会ったこともない母親が25年前に起こしたという事件の賠償として、170年間もの兵役を命じられる。航空宇宙軍のあまりに性急な恒星間探査計画をいぶかしく思いながらも、「俺」は甲板員として外宇宙艦隊の支援艦、シビル11に乗り組み、かつて銀河系中心へ向かったという探査船、オディセウス-0の航跡を追う。ついに「超光速シャフト」と接触したシビル11だが……。
『砲戦距離一二、〇〇〇』 - 英語訳が存在。#外部リンクを参照。
第一次外惑星動乱さなかの2100年、航空宇宙軍船団の直衛にあたっていた警備艦は、小惑星帯において、赤外放射を押さえ「死んだふり」をする敵機をレーダーに捉える。機動爆雷と判断し手順通りの攻撃を加えるが、これをかわした敵機は思いがけない超長距離レーザー砲撃により船団を壊滅させる。警備艦も万事休すと思われたが……。無人砲艦ヴァルキリーが初登場。
『襲撃艦ヴァルキリー』
外惑星動乱から130年後の2230年、プロクシマ星系へと向かう船団の旗艦に乗務するダツ中佐は、先導艦から未確認物体の接近を告げられる。さらに、目的地である第一惑星のケイロンで非合法組織による恐喝事件が発生、船団を人質に要求を突きつけているという。接近中の物体 = ヴァルキリーによって、射程外から船団を破壊できるのだ、と……。ヴァルキリーのさらに後方から接近する、もう一つの光点の正体を探る中佐のもとに、艦隊司令長官から通信が入る。やむを得ず要求を呑むというのだが、このとき先導艦は既に撃破された後だった。どうなっているのか……?
『仮装巡洋艦バシリスク』
シリウス星系に滞在するカンチェンジュンガ級宙域制圧戦闘母艦の3番艦「アコンカグア」所属の艦載哨戒機、グルカ107は、太陽系方向から飛来する物体との邂逅を命じられる。その物体、仮装巡洋艦バシリスクは、150年前の外惑星動乱時に太陽系を離れたものだったが、現在の慣性速度ではシリウス到達には3,000年かかるはずであった……。幽霊船のようにも思える艦内を調査する大崎一曹は、メモリイ・バンク記録の消滅を危惧した艦長が残した手書きのノートを発見する。読み進めるうちに、驚愕の事実が明らかとなる。エアロックに船外服が一着しかなかったのは……。『星空のフロンティア』と共に、『終わりなき索敵』とリンクする。

バシリスクについて

建造経緯
第一次外惑星動乱開戦前夜、増大する航空宇宙軍の脅威に対抗する手段として外惑星連合のタイタン軍が建造した仮装巡洋艦のうちの一隻。航空宇宙軍が保有する正規フリゲート艦とは違い、共通規格の大型輸送艦をベースに軍用に改装しているため、装甲及び加速性能が著しく劣るが、その分大量建造が可能だった。

主兵装・定員等
艦長はニルス・ヘルナー中佐。主兵装は航宙爆雷。必要に応じて機雷も搭載することが可能。定員は通常はドクター要員を含めて九人だが、もとが輸送艦なだけに多少の余裕を見越して設計されているらしい。

劇中の活躍
第一次外惑星動乱開戦直前まで、タイタン軍情報収集船。2099年2月にはラグランジュ-2にあるセレーネ市に入港していた。 この際、タナトス戦闘団隊長のヘロム・?ダンテ?・フェルナンデス中佐を収容し治療した。 直後にタイタンに帰港、仮装巡洋艦としての改装を受ける。

第一次外惑星動乱開戦時には月・地球系の奇襲に参加。静止軌道上のアトランティック・ステーションを攻撃、太陽でスイングバイし、外惑星に向かう軌道を取って離脱した。航空宇宙軍の軍令部を攻撃し、内惑星系の防衛網を突破して外惑星系に離脱するという大胆な指揮であったが、水星系などの防衛網が貧弱であったために却って損傷を受けることがなかった。 帰還にあたり、月面セント・ジョージ市を襲撃したタナトス戦闘団の一部を便乗させている。

本作戦を含め、12回の作戦行動に従事。13回目の出撃時にゾディアック級フリゲート「タウルス」を含む艦隊の攻撃を受けシリウス方向に離脱。タウルスのレーザ砲撃を受け減速不能に陥り、船籍を抹消された。

About 2009年02月

2009年02月にブログ「恋のABC」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のアーカイブは2009年01月です。

次のアーカイブは2009年03月です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.35